こんにちは、みなさんお元気ですか?
古い話で恐縮ですが・・・
昨年(令和2年)1月13日に茨城県筑西市大町のだるま市を訪れた際に見学させていただいた、羽黒神社の文化財収蔵庫完成記念特別公開(縁起・本殿・旧拝殿)の記事の続きを書かせていただきます。
羽黒神社には県指定を含む多くの文化財があり、それらを安全に保管するために収蔵庫が必要とされていました。そこで神社は平成30年度、市の補助を受けて収蔵庫を建設しました。
こちらは完成記念文化財特別公開のパンフレット↓
収蔵庫にはこの日、普段見ることか出来ない文化財が展示されていました。こちらもそのひとつです(以下、パンフレットより)↓
木造愛宕明神立像〔茨城県指定文化財〕昭和38年8月23日指定
像高:93.7cm 台座:26.1cm
材質:檜材
制作年代:鎌倉時代〜南北朝時代
羽黒神社境内の愛宕神社の御神体です。水谷氏が文明13年(1481)に、出羽国羽黒山より羽黒大権現を勧請するまで、この愛宕神社(ブログ管理者注:愛宕明神)が下館の守護神でした。
本像は、総髪で目を大きく見開き、口を閉じた忿怒形(ふんぬぎょう)をあらわし、革の甲(よろい)に裳(も)を付け、両肩両面に羽を広げ、左手に澡瓶(そうへい)、右手に仙杖(せんじょう)を執り、沓(くつ)を履き、荷葉付岩座(かようつきいわくら)に立って、肉身に朱彩、革甲、裳には雲文などが描かれています。
なお、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典によると「明神(みょうじん)」とは↓
「延喜式に定められた社格である『名神』の転化した語とされ、神を尊んで呼ぶ称。また神仏習合説によって神を仏教側から呼ぶ称~」
とのことです。
また、このパンフレットで「羽黒大権現を勧請するまで、この愛宕神社が下館の守護神でした」とされている部分ですが、茨城県教育委員会ホームページいばらきの文化財には、こう書かれています↓
「~愛宕神社は火防の神として、昔は西郷谷(現在の羽黒神社付近)の鎮守として、世人の尊崇が篤かった ~」
お気づきでしょうか。羽黒神社が鎮座するあたりの地名を「下館」ではなく、「西郷谷」としているのです。
この「西郷谷」について、「角川日本地名大辞典8茨城県」(昭和58年、角川書店)にはこうあります↓
・にしごうやむら 西郷谷〈下館市〉
〔近世〕江戸期~明治15年の村名。常陸国真壁郡のうち。五行川(勤行川)の下流右岸の平坦地に位置する。西郷さいごう村と谷や村が合併して成立したともいう(沿革史)。天保年間~明治初年に下西郷谷村と改称。寛永年間・寛文年間・元禄年間・幕末期ともに下館藩領。村高は、「元禄郷帳」609石余、「天保郷帳」617石余、「旧高簿」では下西郷谷村と見え604石余。寛永年間の「水谷領村々高改名主名前御取調帳」によれば高594石余、名主は三宅杢介(下館市史)。当村と田中村は下館城下を形成(新編常陸)。真言宗慈眼院がある。明治4年茨城県、同11年真壁郡に所属。明治7年聿修小学校設立。明治15年下館城下の一部となる。
ちなみに筑西市域には、旧長讃村(後に合併して明野町)に上西郷谷(かみにしごうや)村が存在し、現在も地名として残っています。「上」がつくのは、下館の西郷谷と区別するためだったのでしょうか。何か関連があるかもしれませんが、詳しい事はよくわかりません。
なお、この木造愛宕明神立像は以前、茨城県立歴史館特別展「妖怪見聞録」で展示された際にも、一度ブログでご紹介しています。
というわけで、羽黒神社収蔵庫完成記念特別公開(木造愛宕明神立像と消えた地名「西郷谷」)のお話でした。
筑西市ホームページ
茨城県ホームページ
■このブログで紹介した羽黒神社
・羽黒神社(下羽黒神社)
・上羽黒神社
・外塚羽黒神社
・口戸羽黒神社
・大根田羽黒神社
・下岡崎羽黒神社
・竹島神社
・多良棒羽黒神社
七羽黒をめぐるルート/ちゃりさんぽ公式ホームページ