Hatena Blog版・筑西歳時記~ここは茨城、筑西(旧下館)市

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稲野辺羽黒神社(常陸下館七羽黒か?)

こんにちは、みなさんお元気ですか?

さて、このブログではこれまで、ここ茨城県筑西市常陸下館七羽黒神社についてご紹介してきました。

筑西市大町(筑西市甲)には、文明3年(1481)、初代下館城主の水谷勝氏(みずのやかつうじ)公が出羽国(山形県)羽黒権現を勧請したという羽黒神社が鎮座していて↓

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この大町の羽黒神社を筆頭に、下館(水谷領内)には多くの羽黒神社が建立され、七羽黒と呼ばれてきたとされています。

一般に言われている七羽黒は、①羽黒神社(大町)、②上羽黒神社(岡芹)、③下岡崎羽黒神社(下岡崎)、④外塚羽黒神社(外塚)、⑤竹島神社(稲野辺)、⑥口戸羽黒神社(口戸)、⑦大根田羽黒神社(真岡市大根田)、の七社です。

ただし、以前の記事「七羽黒とは何処を指すのか」で書かせていただいたように、羽黒神社は旧下館市内に七社以上(以外に多良棒、下中山、小林、御本丸八幡宮の相殿)存在した可能性があるのです。

更に、水谷領(下館藩領)ではないものの後に下館市に含まれた川島地区には女方羽黒神社が、水谷氏の転封先である備中松山藩領には、玉島羽黒神社(岡山県倉敷市)と備中松山城御社壇の羽黒大権現(岡山県高梁市)が存在しています。


話を戻して、七羽黒について。一昨年手にした一冊の本に、面白い記述を発見しました。その本がこちら、「国道50号線 旧水戸会道 道は何を何をつくったのか?」(田中浩之著)↓

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実はこの本、故意にそうしたのかもしれませんが、タイトルからして正確な記述とはいえません。国道の正式な呼称は「国道◯号線」ではなく「国道◯号」だからです。ただし、本の中身を読むと市民の証言を丹念に拾い上げていて、旧水戸街道や下館を考える上で、一定の説得力を持ち得ています。

その本の中で、なんと稲野辺の羽黒神社(竹町の羽黒神社)が紹介されていました↓

「▲竹町の羽黒神社
通りから少し北へ入った所に竹町児童館があります。その東側、竹島神社に合祀される前の羽黒神社があります。」

「神社は人と人を別れさせたい時に祈願所として利用されました。〜略〜それが縁切り稲荷の由縁です。」

どうやら地元の方は、もっぱらこの神社を縁切り稲荷だと認識していたような記述ですが、これは明治の神仏分離羽黒神社竹島神社に合祀(茨城県神社庁茨城県神社誌』によれば「合併」)され、羽黒神社の伝承が途絶えてしまったからかもしれません。


さっそく現地に行ってみました。

神社は竹町児童館の↓

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奥に鎮座していました↓

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本によるとこの本殿は、ご近所の株式会社小薬建設さんなどの手により修復されているようです(修復年間不明)。どの程度往時の姿を留めているかも不明です。

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お稲荷様と一緒に、大国様がいらっしゃいました↓

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明治の神仏分離令以降、下館の羽黒神社がお祀りしているのは大国主命(大黒様)です。

手水鉢↓

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面に寄進(奉納)者と寄進年が刻まれているようですが、時間が無くて詳しく確認出来ませんでした↓

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ほかにも何やら石像などが↓

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こちらは青面金剛像(しょうめんこんごうぞう)、いわゆる庚申塔でしょうか。足元には「言わざる、聞かざる」の猿像、破損した左端には「見ざる」が彫られていたと思われます↓

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石像は地蔵菩薩でしょうか。木に飲み込まれそうです↓

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こちらの石碑には

天明□□
権大僧都
権少僧都
寛政□□
と刻まれているようです↓

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明は江戸時代中期の元号で1781年から1789年まで、寛政は天明に継ぐ年号で1789年から1801年まで。権大僧都(ごんの だいそうづ)と権少僧都(ごんの しょうそうづ)は、いずれも僧侶の位です。神職ではなく僧侶というのが、ひとつのポイントかもしれません。

もう一体、石像が↓

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なお、旧下館市発行の広報下館をまとめた「広報下館縮刷版」という本の「ふるさとよもやまばなし」というコーナーでは↓

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稲野辺羽黒神社の場所を「稲野辺本郷集落の北側」と記しています。

Googleマップ上の稲野辺地区は、この範囲で↓

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竹町児童館裏の羽黒神社は、どちらかと言えば稲野辺(大字に相当)の南に位置していて、「ふるさとよもやまばなし」と合致しないように思われます。このあたりは未確認でよくわかりませんが、おそらく稲野辺本郷(稲野辺の中心集落、小字に相当か)の中では北に位置するのでしょう。


七羽黒の起源について一般にはこう説明されます。
「文明10年(1478)、水谷勝氏が下館に築城。文明13年には出羽国の羽黒大神(羽黒権現)を勧請し、下館の羽黒神社を中心に、下館城の鬼門にあたる市野辺、風門の下岡崎、病門の外塚、天門の岡芹に羽黒神社を建立した。その後天文14年(1545)、第6代の水谷蟠龍斎(ばんりゅうさい)が久下田城に築城。鬼門にあたる大根田と、病門の口戸に羽黒神社を建立し、あわせて七羽黒と呼ばれるようになった」
ほかにも「茨城県神社誌」口戸羽黒神社の項には、「出羽羽黒山の御分霊を迎へ 結城七社を模して鎮斎した」との記述があります。

ただし、これらは一次史料を欠くため、そのまま事実とするのはためらわれます。
ちなみに「七羽黒巡り」に似た民間信仰に「七福神巡り」があり、七柱の神仏をまとめた七福神信仰は、室町時代末頃には既に存在したそうです。江戸時代後半の文化文政年間(1804~1830)には、江戸の風流人たちが正月の七福神巡拝を始め、その後各地に七福神巡りの順路ができたと言われています(参照:HP「すみだ郷土文化資料館企画展・隅田川七福神江戸の七福神の歴史」)。あくまで想像ですが、下館の「七羽黒」という呼び名も、そのあたり(江戸時代後半)に起源を求める方が妥当なのかもしれません。


というわけで、長文になりましたが、竹町児童館裏の稲野辺羽黒神社のお話でした。

 

■このブログで紹介した羽黒神社
羽黒神社(下羽黒神社)
・上羽黒神社
・外塚羽黒神社
・口戸羽黒神社  
・大根田羽黒神社
・下岡崎羽黒神社

竹島神社

・多良棒羽黒神社

・下館城御本丸八幡宮の相殿・羽黒権現

女方羽黒神社


茨城県筑西市下館大町の羽黒神社から七羽黒を考える

七羽黒をめぐるルート/ちゃりさんぽ公式ホームページ

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