こんにちは、みなさんお元気ですか?
さて、ここ茨城県筑西市の大町(筑西市甲)には、羽黒神社が鎮座しています。
こちらが、下館(大町)の羽黒神社・拝殿↓
同・本殿↓
そして、この大町の羽黒神社を筆頭に、周辺に多くの羽黒神社が建立され、七羽黒と呼ばれてきました。
七羽黒の起源について、一般にはこう説明されます↓
「文明10年(1478)、水谷勝氏が下館に築城。文明13年には出羽国の羽黒大神(管理者注:羽黒権現)を勧請し、下館の羽黒神社を中心に、下館城の鬼門にあたる市野辺、風門の下岡崎、病門の外塚、天門の岡芹に羽黒神社を建立した。
その後天文14年(1545)、第6代の水谷蟠龍斎(ばんりゅうさい)が久下田城に築城。鬼門にあたる大根田と、病門の口戸に羽黒神社を建立し、あわせて七羽黒と呼ばれるようになった」
ほかにも、「茨城県神社誌」口戸羽黒神社の項には、「出羽羽黒山の御分霊を迎へ 結城七社を模して鎮斎した」との記述があります。
ただし、これらは一次史料に欠けるため、そのまま事実とするのはためらわれます。しかも以前の記事「七羽黒とは何処を指すのか」で書かせていただいたように、水谷領内には7社以上の羽黒神社が存在したのです。
ちなみに「七羽黒巡り」に似た民間信仰に「七福神巡り」があります。七柱の神仏をまとめた七福神信仰は、室町時代末頃には存在したそうです。やがて江戸時代後半の文化文政年間(1804~1830)には、江戸の風流人たちが正月の七福神巡拝を始め、その後、各地に七福神巡りの順路ができたと言われています(参照:HP「すみだ郷土文化資料館企画展・隅田川七福神江戸の七福神の歴史」)。あくまで想像ですが、下館の「七羽黒」という呼び名も、そのあたり(江戸時代後半)に起源を求める方が妥当なのかもしれません。
という事で前置きが長くなりましたが・・・
今回ご紹介するのは、下館の羽黒神社に関連して、常陸国を遠く離れ、備中へと勧請された羽黒権現のお話です。
その場所は、筑西市の友好都市である岡山県高梁(たかはし)市。標高430mの臥牛山頂上付近に建つ国指定重要文化財の備中松山城(以下写真は全て平成22年撮影)です↓
江戸時代以前に建てられ現在まで残る天守、いわゆる現存天守がある城は、実は日本に12か所しかありません。備中松山城はそのひとつです。
備中松山城の起源は、鎌倉時代に有漢郷(現:高梁市有漢町)の地頭・秋庭重信が大松山に城を築いたのに遡るといいます。
現存する天守は、備中松山藩主・水谷勝宗(みずのやかつむね)によって天和3年(1683)から3年がかりで修築され、今の姿になったもの。この勝宗が当主をつとめた水谷氏こそ、寛永年間(1624~1644年)に備中に移封されるまで、常陸下館藩(現:筑西市)の藩主であった水谷氏なのです。
そして今回の記事の主役である羽黒権現、それは天守2階の御社壇にいらっしゃいました。
天守2階の奥に見えるのが↓
御社壇です↓
平成22年に訪れた時、この御社壇について、こんな解説が書かれていました↓
「天和3年(1683)、当時の城主・水谷左京亮勝宗(みずのやさきょうのすけかつむね)がこの松山城を修築したその節、松山藩5万石の守護として三振の宝剣に天照皇太(てんしょうこうたいじん)を始め、水谷氏の守護神羽黒大権現(はぐろだいごんげん)等十の神々を勧請しこの御社壇に安置し、この御社壇に安置し事ある毎に盛大な祭典を行ない、安康を祈った」
そうです。備中松山城には「水谷氏の守護神羽黒神社大権現」が祀られていて、「事あるごとに盛大な祭典」が行われていたのです。
ただしこの解説だけでは、今ある御社壇が当時を再現したものかはわかりません。また羽黒大権現が、下館の羽黒神社から勧請したものか、出羽国から勧請したものかも不明です。
ただし、はるか出羽から新たに羽黒権現をお招きするより、既に下館にいらっしる御分霊を、大名家臣の国替と共にお連れしたとする方が、どう考えても合理的です。ここは下館の羽黒権現を備中にお招きした、そう考えたいと思います。
というわけで、下館(筑西市)の羽黒神社から勧請された(と思われる)、備中松山城・御社壇の羽黒大権現のご紹介でした。
■岡山県高梁市
面積:549.km2
人口:27,454人 (令和2年10月)
■このブログで紹介した羽黒神社
・羽黒神社(下羽黒神社)
・上羽黒神社
・外塚羽黒神社
・口戸羽黒神社
・大根田羽黒神社
・下岡崎羽黒神社
・竹島神社
・多良棒羽黒神社
・幻の小林(おばやし)羽黒神社
すみだ郷土文化資料館
七羽黒をめぐるルート/ちゃりさんぽ公式ホームページ