Hatena Blog版・筑西歳時記~ここは茨城、筑西(旧下館)市

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(筑西市)下館支部自治委員会の「下館支部町界図」と「下館旧市内甲乙丙町界図」

こんにちは、みなさんお元気ですか?

少し古い話で恐縮ですが・・・

昨年(令和3年)、茨城県筑西市にあるしもだて美術館へ「池袋モンパルナス-画家たちの交差点-」だったか「皆川末子 布絵の世界展」を観に行った時に、ちょっと面白い地図2種類を発見しました。地図は(筑西市)下館支部自治委員会が作成したもので、「ご自由にお取りください」とあったので、いただいてきました。

まず1枚目は、「下館支部町界図」↓

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下館支部町界図と言われても、それだけでは、ほとんどの方は全く意味がわからないかと思いますが・・・
このマップには、旧下館市中心市街地に残る大町や田町などといった通称町名と、その境界が示されています。

中心部を少しだけ拡大(町名を着色)↓

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続いて2枚目は、「下館旧市内甲乙丙町界図」。こちらには、正式な地名である甲乙丙の境界が示されています↓

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甲の範囲(分かりやすくするため着色)↓

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かつて甲の北側部分に、下館城がありました。

乙の範囲↓

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丙の範囲↓

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ここで言う「下館旧市内」、つまり甲乙丙の範囲は、明治22年(1889)に町制を施行した「下館町」の範囲を指し、おそらくそれは江戸時代の常陸国下館城下(西郷谷村と田中村)の範囲を踏襲したもの、だと思われます。
ただし、西郷谷と田中の2村なのに甲乙丙の3地区に区分されているのは何故か、よくわかりません。田宮家文書「下館領五万石村々石高帳 寛永十六年己卯八月改」によると、田中村の石高が210石8斗9升3合なのに対し、西郷谷村は594石6斗5升9合と約2.8倍あるので、甲と乙をあわせて西郷谷村、丙が田中村のような気もするのですが・・・。ご存知の方はご教示ください。

さて、もともと江戸時代の下館城下には、大町や田町などと言った「町名」がありました。しかし、明治になって「甲乙丙」を正式な地名として採用したため、「町名」は通称扱いに。それでも「町名」は地域で使われ続けて来たのですが、筑西市誕生後は、市からの郵便物の宛先に「甲乙丙」のみが使用されるなど、「町名」が省略されるようになってしまいました。

そこで、地元で浸透している「町名」を継承しようと活動を始めたのが、この地図を作った(筑西市)下館支部自治委員会

です。平成29年には、市と自治会下館支部、そして下館商工会議所(関正夫会頭)が、「下館地区旧市内の下館及び通称名に関する覚書」を締結し、通称町名と下館の名称の有効活用に努めることで合意しています。

覚書の趣旨にそって設置された表示↓

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さてさて、実は前掲のマップにある「旧市内」という言い方には、以前から少し違和感をおぼえています。素直に考えて「旧市内」と言った場合、その意味するところは、(筑西市誕生前に存在した)「下館市」の範囲。前述のように下館町(甲乙丙)の範囲を言う場合は、「旧下館町内」という表現が正解のような気がするのですが・・・。もしかしたら「旧下館町内」だと、通称の「○○町」と下館町の「町」が被ってしまい、紛らわしいので避けているのかもしれません。

いずれにしても、大町などの通称町名は江戸時代から数百年、下館の名称はもっと古い時代から使われているもの。由緒ある歴史の一部なので、ぜひ大切にしていただきたいものです。

 

というわけで、「下館」という名称や下館城下と町名についても、もうちょっと勉強のうえ、いずれ機会があれば記事にしたいと思います。

 

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