Hatena Blog版・筑西歳時記~ここは茨城、筑西(旧下館)市

筑西市を紹介するブログ「筑西歳時記」のHatena Blog版です

板谷波山記念館 基本構想(令和2年3月 筑西市教育委員会)

こんにちは、みなさんお元気ですか?

さて令和2年(2020)4月29日、日本工業経済新聞という専門紙の茨城版に、こんなタイトルの記事が掲載されました↓

「延べ1,200~1,300㎡を想定・板谷波山新記念館整備」

内容としては、ここ茨城県筑西市教育委員会が、陶芸家として初の文化勲章受章者である板谷波山先生の顕彰施設「板谷波山記念館」の整備方針を決定した、というものです。

それらの方針は「基本構想」と「基本計画」から成り、市民の意見を聞くパブリックコメントの実施を経て、市HPで公開されています。そこでこのブログでも、今回「基本構想」を、次回は「基本計画」をご紹介させていただきます↓


板谷波山記念館 基本構想

令和2年3月 筑西市教育委員会

筑西市公式HPより(現在非公開)

f:id:UncleAlbert:20240422230832j:image

f:id:UncleAlbert:20240422230908j:image


f:id:UncleAlbert:20240422231034j:image

f:id:UncleAlbert:20240422231141j:image
f:id:UncleAlbert:20240422232102j:image
f:id:UncleAlbert:20240422232134j:image
f:id:UncleAlbert:20240422232238j:image
f:id:UncleAlbert:20240422232423j:image
f:id:UncleAlbert:20240422232353j:image
f:id:UncleAlbert:20240422232518j:image
f:id:UncleAlbert:20240422232558j:image
f:id:UncleAlbert:20240422232818j:image
f:id:UncleAlbert:20240422232850j:image
f:id:UncleAlbert:20240422232914j:image
f:id:UncleAlbert:20240422233047j:image
f:id:UncleAlbert:20240422233139j:image

板谷波山記念館 基本構想

令和2年3月 筑西市教育委員会

筑西市公式HPより(現在非公開)

 

板谷波山とは・・・

 (1)板谷波山筑西

 やきものを愛する人には、波山を「陶聖」と呼ぶ人もいます。波山が亡くなり、50有余年の歳月が流れましたが、未だに彼を超える陶芸家は、この日本から現れていないといわれています。 

波山ファンとして著名な小説家・瀬戸内寂聴氏は、「波山自身は、この世から姿を消したのに、作品はますます気品と色香を増し、生命感にあふれ、時代を楽々と越えていこうとしている」と語っています。 

波山は、明治5年(1872)下館(現筑西市)に、江戸時代には醤油醸造業や荒物業を営み、下館藩の御用商人を務めた旧家に生まれました。江戸時代に有数の商業都市として栄えた下館は、芸術や芸能が豊かに実った土地で、波山は両親の影響もあり、幼い頃から美しい絵画ややきものに接し、鑑賞する機会が多かったといわれています。下館小学校を卒業後、東京美術学校(現東京藝術大学)彫刻科へ入学し、校長の岡倉天心や彫刻科教授・高村光雲の薫陶を受けるようになります。 

その後、石川県金沢の石川県工業学校の教諭を経て、明治36年(1903)には、陶芸の道を歩むことを決意し上京、東京・田端で、まる夫人と共に貧困と闘いながら自らの窯を築きました。 

波山の功績は、日常の生活道具だったやきものを、独自の技法により鑑賞の器へと芸術の域に昇華させたことであり、昭和9年(1934)には帝室技芸員を拝命、そして昭和26年(1951)には下館町名誉町民、さらに昭和28年(1953)には工芸家として初めて文化勲章を受章し、昭和29年(1954)には横山大観と共に茨城県名誉県民の第一号となりました。没後の平成14年(2002)には「葆光彩磁珍果文花瓶」(泉屋博古館分館蔵)が近代工芸作品の第一号として国指定重要文化財の栄を受け、平成18年(2006)には「彩 磁禽果文花瓶」(敦井美術館蔵)も国指定重要文化財の指定を受けています。 

波山陶芸の代表的スタイルである「葆光彩磁」は、独特の釉薬表現で、その文様彫刻を柔らかな光で包み込むような作風は気高く、見る者を静寂と幽玄の世界に誘うと評され、20世紀陶芸の最高峰と称えられています。 

また波山は常に、ふるさととふるさとの人々に、惜しみない愛情を注ぎました。自分の仕事を投げ打って、ふるさとの80歳を迎える高齢者には鳩杖を、そして戦没者の遺族には観音像や香炉をそれぞれ無償で贈り、激励してまわりました。波山はその死に至るまで、ふるさとを想い、ふるさとに尽くした人でもありました。 

(2)板谷波山記念館の建設とこれまでの経緯

 波山はその最晩年、自分の生家と庭を寄付し、またふるさとの若者のために奨学金を提供したいと希望しました。この意を受け昭和38年(1963)、波山を敬愛する地元有志の尽力により、財団法人波山先生記念会が設立されました。この財団認可の報が届いた時、病床にあった波山は軽く頷き、安心したのか、その一時間後に息を引き取ったといわれます。 

その後、昭和55年(1980)には、東京田端にあった波山の工房や窯、作品などが遺族によって寄贈・移築され、これを機に、財団法人波山先生記念会が板谷波山記念館をオープンしました。しかし、平成3年(1991)、施設内の波山作品20点余りが、盗難に遭うという事件が起こっています。 

平成7年(1995)下館市(現筑西市)は、市道拡幅事業に際し、記念館周辺を板谷波山記念公園として再整備し、敷地内に展示館や管理棟などを新築。現在の記念館の姿になりました。この時から、波山先生記念会が所蔵する作品や窯などを除く、土地建物の過半が市の所有となったため、記念館は公共施設として、市が管理運営することとなりました。 

さらに、平成18年度からは指定管理者制度が導入され、波山先生記念会が指定管理者として、年間384万円の委託料で運営管理にあたっています。 

しかし、記念館は、平成7年(1995)から今日に至るまで、建物や設備機器の大きな改修や更新、また、大規模な展示替えや展示物の追加もほとんど行われておらず、施設の全体的な老朽化・陳腐化が進み、防犯・防災上のリスクも増加しています。 

板谷波山記念館の現状と課題 

(1)新しい局面-板谷波山・神林コレクションの寄贈

 波山記念館の来館者には、「波山作品をもっと見たいのに、記念館の作品展示数が少ない」と指摘する人が、少なからずいます。しかし波山は、生涯作品数1000点程度といわれる寡作な作家であり作品は高額です。また作品の多くは美術館などにすでに収蔵されており、市場に流通していないので、購入などは難しいのが実情でした。

こうした状況の中、平成29年(2017)、陶芸作品32点を含む、合計44点もの貴重な作品(時価3億4,000万円)が、筑西市に寄贈されるという幸運に恵まれました。日本有数の波山コレクターとして知られる茨城県土浦市の故神林正雄・節子ご夫妻が、40年にわたって収集されたもので、一般財団法人波山先生記念会の仲介により、ご夫妻の長女の渡辺政代氏が寄贈してくださいました。渡辺氏は、ご両親が生前語っていた「これらの作品をいつか波山先生が愛したふるさとにお戻ししたい」という想いを汲まれ、寄贈を決断されました。 

この寄贈を受け筑西市教育委員会は、この神林コレクションをお披露目するため、平成30年(2018)10月6日~11月4日の間、記念館において、「板谷波山・神林コレクション初公開ふるさとへの贈り物」展(以下、「神林コレクション展」)を開催しました。26日間の会期中の来館者数は4,607人となり、これは平成29年度の年間来館者数を超える数です。会期末にかけて尻上がりに増え、最後の週末は、1日の来館者が400人に達する盛況を呈し、記念館が大きく飛躍できる可能性を示しました。 

(2)「神林コレクション展」のアンケート調査 

「神林コレクション展」では、会期中、来館者に対しアンケートを実施しました。その結果、「もっと広いところで展示してもらいたい」、「作品を見るのに距離がない」など、展示スペースの狭あい性が指摘されています。展示スペースについては、「狭い」あるいは「やや狭い」と回答する方、反対に「ちょうどよい」と回答する方もおり、一見すると展示スペースに問題がないようにも思われます。しかし「神林コレクション展」では、神林コレクションのみを展示した経緯があり、これ以外に所蔵する陶芸作品や、素焼き、絵画、道具、陶片といっ た数多くの貴重な品々を展示することができませんでした。これらを勘案すると、現在の記念館は展示スペースが狭あいであるという課題があることが分かります。 

また、「色々な作品が見たい」や「他館からの借り受け展示をしてもらいたい」という意見もありますが、常勤の学芸員がおらず、セキュリティの確保などの課題が解決できない以上、多くの作品を展示することや借り受け展示を行うことは不可能です。 

さらに、市内からの来館者は約3割に留まり、残りの7割は市外、このうち県外からの来館者が3割という結果となっています。これは、波山という人物の知名度が全国区であることと、神林コレクションの注目度の高さとがうかがえます。一方で、市民の関心は決して高くなかったことを表しており、波山という郷土の偉人について市民が学習する機会や、市としての情報発信が十分ではなかったという見方もできます。こうしたアンケート調査の結果や「神林コレクション展」の開催によって、現在の記念館が抱える様々な課題が改めて浮き彫りとなりました。

(3)記念館の問題点と課題

 全国各地には、博物館・美術館・記念館と呼ばれる施設が数多くありますが、これらの施設は、博物館法の制度上の区分によって、「登録博物館」・「博物館相当施設」・「博物館類似施設」のいずれかに区分されます。 

現在の記念館は、常勤の学芸員がいないことから、制度上は「博物館類似施設」に区分されています。一方で、しもだて美術館は、博物館法の要件を満たした「登録博物館」として位置付けられています。 

この広義の博物館には、次の4つの機能があります。①資料の収集・保存、②資料の展示、③資料の調査研究、④教育普及です。そして学芸員は、これらの活動を実際に行う役目を担っています。 

以上のような観点から現在の記念館をみてみると、次のような問題点・課題がみえてきます。 

ア 作品の保全問題

本来、博物館・美術館・記念館は、文化財を安全に収蔵・展示し、維持・管理する施設のはずですが、現在の記念館は、例えば建物にガラスの開口部が多いなど、防犯上深刻なリスクがあります。 

「神林コレクション展」は、夜間には専門の警備員を2人常駐させ、昼間は展示室と工房・窯場に1日3人、延べ約80人のボランティアの協力を仰ぎ実施されました。今回は、短期の開催であったため可能でしたが、常時このような警備・見守り体制を組むことは困難です。 

また、資料を適切に保存するために必要な、温度湿度が管理された収蔵庫も無いため、収蔵品の劣化が進んでいます。さらに展示のバリエーションを広げるためには、他の美術館や個人からの借り受け展示が不可欠ですが、安全性や展示環境の理由から、現在それは不可能といえます。 

このため記念館は、博物館として十分に機能しているとはいえません。 

イ 展示物およびスペースの不足

記念館は、波山の情報を発信する施設、研究拠点として、できる限り多くの作品を展示し、公開することが望まれます。そのため既存の作品だけでなく、神林コレクションや他館から借り受けた作品なども展示する必要がありますが、展示スペースが60㎡と狭あいなため実施できません。 

また記念館は、陶芸作品以外にも波山が使った道具類、テストピースや膨大な数の陶片、波山にまつわる各種映像など、多くの資料を所蔵していますが、安全が確保できる十分なスペースが無いため紹介することができません。 

さらに、波山の陶芸家としての歩み、葆光彩磁や薄肉彫りなどの波山独自の技法、ふるさとに寄せた愛情、波山の人柄、波山に関わった人々の紹介なども、スペース不足により行うことができません。 

学芸員の不在

茨城県内には、「登録博物館」として17施設(平成30年度現在)が登録されていますが、現在の記念館は学芸員が不在のため登録できません。

学芸員は、展示の更新や展覧会の企画、それに必要な調査研究、作品や資料の収集保存、広報活動、来館者への説明や講義など、多彩な活動を行います。こうした学芸員の不在が、「いつ行っても、波山記念館では、同じ展示物しか見られない」という来館者の不満の一因になっています。 

そして何より、貴重な作品を扱う施設において、専門知識を有する学芸員がいないという現状は危険だといえます。 エ 新しい表現技術の不足 「葆光彩磁」に代表される波山独自の繊細な技法を紹介するには、高精細な画像コンテンツが求められます。そのためには4K・8K映像や、コンピューターグラフィックスなどのデジタル技術を駆使し、波山の技法を視覚的に分かりやすく表現する必要がありますが、現在の記念館は映像設備も十分でないことから、紹介できない状況です。 

オ 教育普及活動スペースの不足

博物館の機能の一つとして、幼児から高齢者まで、あらゆる世代の方たちが参加し、学習できる場を提供する教育普及活動があります。しかし現在の記念館は、展示スペースすら十分に確保できておらず、講演会やワークショップなどの教育普及活動を行うことができません。 

また、「神林コレクション展」では会期中、多数のボランティアが運営に参加し、来館者の案内や交流が行われました。今後、記念館は、市民ボランティアガイドを育成し、市民と協働で施設を運営していく必要があります。しかし現在の記念館には、十分なスペースや学芸員がいないため、ボランティアガイドを育成することはもとより、募集すらできない状況です。

*小学生の見学の様子 (板谷波山記念館展示棟) 展示室が狭いため、見学しづらい。  

*受付から展示棟までの移動の様子 (板谷波山記念館) 受付、展示棟、作業棟が別々の建物 受付、展示棟、作業棟が別々の建物 であるため、雨の日は傘をさして移 動する必要がある。 

板谷波山記念館の課題の解決・抜本的リニューアル 

(1)課題の解決のための抜本的リニューアル 

記念館は、まず前述の課題の解決が必要です。 

ア 作品の保全問題⇒堅牢な建物・収蔵庫・展示物保護設備・警備体制などの整備 

イ 展示物およびスペースの不足⇒展示物の収集、展示スペースの確保 

学芸員の不在⇒複数の学芸員の確保

エ 新しい表現技術の不足⇒最先端の表現技術の導入、来館者が楽しく学べる参加体験型展示の整備 

オ 教育普及活動スペースの不足⇒ワークショップスペース、ボランティアガイド交流活動スペース等の整備 こうした課題を解決するには、現在の記念館を部分的に改修するだけでは不可能であり、抜本的なリニューアルが求められます(以下、抜本的リニューアル後の記念館を「新記念館」という)。

(2)新記念館の必要性 

筑西市は現在、市外の人々に対して十分に観光的魅力をアピールできていません。こうした問題の解決のために、本市出身で工芸部門初の文化勲章を受章した波山は、筑西市オリジナルのアイコンとして、大きく役立つものと考えられます。しかしその波山は、芸術の世界では「陶聖」と呼ばれていても、一般的には知名度が低く、市民にも十分には知られていません。これは、波山について市民が学び、研究の中枢として広く情報を発信できる施設がないことが大きな要因と考えられます。 

現在の記念館は、波山の足跡を伝える記念館として、平成7年(1995)に開館しましたが、建物の改修や設備の更新、作品の展示替えや追加などもほとんど行われたことがありません。このため記念館では研究はおろか、安全上のリスクがあることから、寄贈作品の展示にも支障をきたしています。しかし今後、新たな視点、ITなどの新しい技術を活用することによって、市民の生涯学習の施設、波山研究の中心施設、魅力ある観光施設として生まれ変わることができます。 

新記念館では、作品の展示スペースを十分に確保し、様々なコンテンツを使って、作品や陶芸家としての歩み、波山の人柄について紹介します。そして学校教育と連携したプログラムを開発し、しもだて美術館を始めとする市内の文化施設と連携することで、幼児から高齢者まで、あらゆる世代が生涯を通じて自由に交流し、学習できる施設となります。これにより、市民が波山を通してふるさとの魅力を知り、誇りを持つきっかけになることが期待できます。 

また、学芸員を配置し、他の美術館や大学、研究所と連携することで、波山研究の中枢として、波山のこれまで明らかにされてこなかった新たな魅力を掘り起こし、広くその情報を発信することが可能です。これにより、波山の全国的な知名度が上がり、興味を持つ来訪者の増加が期待できます。 

以上のように新記念館は、学習・研究・観光という役割を担う施設として、本市のアイコンのひとつ「板谷波山」のあらゆる情報を発信することで、市民交流、生きがいづくり、賑わいのあるまちづくりに貢献します。

(3)第2次筑西市総合計画(まちづくり)との合致 

第2次筑西市総合計画には、「まちなかに人が集まり、市民や来訪者の多様な交流が創出され、市の内外に筑西ファンをつくる」、「郷土愛を持った地域を愛する子どもたちの育成」が重点プロジェクトとして掲げられています。 新記念館は、その様々な活動を通じて、市の重点プロジェクトの実現に貢献します。 

4新記念館の基本理念 

(1)新記念館整備の根幹となるテーマ

新記念館のキーワード

『かつて美しき日本人が此処にいた』 

美を愛し、人を愛し、ふるさとを想った、清貧の陶芸家・板谷波山。波山の人生を見つめるとき、人間としての本当の豊かさとは何か、ということをつくづく考えさせられます。粗末な作業場で、貧困に苛まれながらの苦しい時代に生みだされた波山の器は、むしろ気高くどれもが美しく輝いています。お金が無いので夫婦で築いた小さなレンガ窯から、世界の人々を驚嘆させる珠玉のやきものが誕生したのです。 

どんな苦境にも負けず、芸術家としての誇り、さらには人間としての豊かさを決して失わなかった波山。その波山を支えたものは、いったい何だったでしょうか。それは、幼い頃から抱いていた美への憧れだったのではないでしょうか。これまで誰も辿り着くことができなかった崇高な美の世界を、陶芸によって自ら創造しようとした強い意志。そして、自らのためだけではなく、自分を育て支えてくれた人々のために、全身全霊を込めて制作に没頭したのです。波山の作品をじっと眺めていると、そこから彼の愛や想いが溢れ出てくるかのように感じられ 、深く心打たれます。 

波山は、工房のあった東京田端から筑波山を眺め、常にふるさとの人々に思いを馳せていました。80歳を迎えた高齢者のために「鳩杖」を制作し、ますます元気になるように励ましました。また、日中戦争や太平洋戦争で子息を失った家族には「香炉」や「観音像」を贈り、その悲しみを労わっていました。戦時中、最も辛く弱い立場にある人々に、一層の深い思いを寄せた波山の清らかな人間性が偲ばれます。波山は21世紀に生きる私たちに、人生の本当の豊かさや楽しさを伝えてくれているのです。  

 

新記念館は、心温まる波山作品に触れることで、陶芸家・板谷波山の溢れるような愛を感じ、その想いを知り、少しでも心が癒され、幸せな気持になり、そして永く愛される記念館を目指します。 

 

板谷波山記念館基本構想

令和2年3月

発行:筑西市教育委員会 

編集:文化課

〒308-8616茨城県筑西市丙360番地


というわけで、みなさんはこの「板谷波山記念館基本構想」を読み、どのような感想をお

待ちになったでしょうか。

 

筑西市公式HP

板谷波山記念館

Amebaブログ