Hatena Blog版・筑西歳時記~ここは茨城、筑西(旧下館)市

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(筑西市)西町の北向地蔵尊

こんにちは、みなさんお元気ですか?

さて今回は、ここ茨城県筑西市の歴史・文化財のお話です。

市内の西町には、北を向いて立つお地蔵さまの御堂があり、市民に「北向地蔵(きたむきじぞう)」と呼ばれています。

東京巣鴨とげぬき地蔵尊のように有名なものから、地方の寺や町の辻など、日本全国にその数が把握できないほど祀られているお地蔵さま。その無数のお地蔵さまのうち、北を向いているものはあまりなく、珍しいそうです。

西町の北向地蔵尊は江戸時代のはじめ、常陸国下館五万石の藩主となった松平頼重(徳川家康の孫で光圀の兄)が開いたという、江戸街道の江戸坂にあります↓

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お堂の前にあった手水鉢(ちょうずばち)↓

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明治卅三(33)年に奉納されたようです。この年は西暦でいうと1900年、昭和天皇が生まれる前年にあたります。

お堂の内部にはお地蔵さまが4尊(3尊+石碑?)、北を向いています↓

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実はお地蔵さまの向きには、「忌むべき方角である北を向いている故に格別な霊威を持つと信じる、北向信仰の一つである」とか、「衆生済度を目的とする地蔵菩薩は常に民衆とともに下座にある、つまり北を向いているのが本来の姿である」など諸説あるようで、詳しいことはよくわかりません。

ちなみに西町の北向地蔵尊については、説明板にこうありました↓

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願いごとが叶うお地蔵様

北向地蔵尊

筑西市西町甲142番地

言い伝えによれば、江戸時代の中頃、奥州からの旅人が下館の城下に入り、江戸坂(国道旧五十号線)の西町の台地に来た時、旅の疲れが出て急に発病した。

旅人は親切な茶屋の人に介抱されたが、故郷奥州に向かい朝な夕な妻子の名を称え、手を合わせ祈りながらやがて亡くなってしまった。
地元の人々は、あまりに哀れに思い供養のために、旅人の故郷北方に向けて一宇を建てお地蔵様を祀った。このことから「北向地蔵尊」と呼ばれている。
このお地蔵様は、安産、五体満足、健康、長寿、知恵、財宝、愛嬌、豊作、神明加護、極楽往生の十の福があると言われ今日も信仰が篤い。
撰文 宮本朔夫
寄贈 下館商工会議所

どうやら西町の北向地蔵尊は、江戸時代にここで亡くなった旅人の故郷である奥州の方角に向けて建立された、と言い伝えられているようです。この言い伝えの元になるような事実があったのでしょうか。

妻子の名をとなえたというのだから、この旅人は男です。奥州とは、陸奥国(現在の福島県宮城県岩手県青森県)と出羽国(現在の山形県秋田県)のこと。ここでは、この男が武士なのか、町人なのか、農民なのかは示されていません。当時、寺社参拝や湯治などを除くと、庶民が領国の外へ移動することは制限されていました。ここ下館藩には、わざわざ奥州から訪れるほどの寺社や温泉地はありません。ここ下館藩には、わざわざ奥州から訪れるほどの寺社や温泉地はありません。しかも、日光街道水戸街道といった主要道からは外れた場所。小山宿と水戸城下を結ぶ結城街道沿いに用事でもあったのか、はたして旅の目的は何だったのでしょう。

今なお訪れる人が絶えず、花が飾られ、真新しい前掛けがかけられている西町の北向地蔵。指定文化財ではありませんが、長く後世に残したい筑西の歴史文化の一部だと思います。

ところで先ほど、「わざわざ奥州から訪れるほどの寺社や温泉地はありません」と書きました。これに関してちょっと面白い話があるのですが、それについてはまた後日、機会があれば書かせていただきたいと思います。


というわけで、西町の北向地蔵尊のお話でした。