こんにちは。
早いものでもう9月。台風の影響でしょうか、ここ北関東は少しだけ過ごしやすい暑さとなりました。みなさんは元気にお過ごしでしょうか。
さて、話は変わって・・・
これまでにも伊達氏との関連を含めてご紹介してきた、茨城県筑西市中舘にある観音寺(施無畏山延命院観音寺)。今回は伊達氏ではなく、お寺の歴史についてのお話です。
観音寺周辺を歩いてみると、境内西側の畑の中に、ぽつんとお墓があります↓
墓石には刻まれているのは「獨守居士之墓 」の文字。中舘観音寺は、用明天皇の時代に梁の帰化人・法輪独守居士が仏像を安置したことに始まるとされていて、これはその法輪独守居士の墓所のようです↓
先に記事にさせていただいた延命水の案内板には、法輪独守居士と中舘について、こう記されています↓
【中館観音延命水の由来】
中館観音寺は施無畏山延命院(せむいざんえんめいいん)と号し、本尊は国の重要文化財に指定されている延命観世音菩薩(えんめいかんぜおんぼさつ)の木像であるが、この本尊の「延命」の由来については「中館観音寺縁起」によれば、今から千三百余年前、用明天皇のとき梁(りょう 中国)の帰化人である法輪独守居士(ほうりんどくしゅこじ)が、仏像を背負って有縁の地を求め、各所を遍歴していたが筑波連峰を一望に、清流の調べ豊かな中館の台地に安置したことにはじまる。
当時この地方に悪疫が流行し死者が続出していた。そこで独守居士が、山東の石上において悪疫退散の祈願を行なうと、不思議にも清泉が怫然として沸き出で、この水を飲むものはたちまち悪疫が治ったといわれる。
その後孝徳天皇の時にも再びあらたかな霊験があり天皇の叡感(えいかん)により「延命」という称を賜ったという。
平成五年三月三十一日 下館市
法輪独守居士についての詳細は不明です。ただし、中館観音寺の由緒と極めてよく似たいわれを持つお寺が、筑西市のお隣・桜川市にあります↓
雨引観音は雨引山楽法寺と申し、用明天皇2年(587年)梁の国人の法輪独守居士によって開かれた、厄除延命安産子育の霊験あらたかな延命観世音菩薩(国指定重要文化財)を本尊佛として、おまつり申し上げる坂東観音霊場第二十四番札所の名刹である。
第三十三代推古天皇御病気とならせられるや、遙かに当山観世音菩薩に病気平癒を祈らせ玉い、ご本復遊ばされたので、当山を勅願のみ寺と定められた。天平年中(730)第四十五代聖武天皇ならびに、光明皇后は法華経を書写して当山に奉納しご安産をご祈念あられたところ功験あらたかであったので、当山を安産祈願の根本道場と定めて勅願寺となされ、三重塔を造建せられた。現在光明 皇后の紺紙金泥の法華経は什宝として保存せられている。嵯峨天皇の弘仁12年(821)夏、大旱魃が国中を見舞うや、天皇は親ら写経し給い、当山に納めて、ひたすら降雨を祈らせられた(天皇の御染筆は寺宝として現存)天皇の御願むなしからず国中は大雨に潤い五穀ために実ったので御感浅からず勅命によって当山の山号を雨引山と定め勅額をくだし賜った。雨引山楽法寺の山号寺名はこの勅命によるのである。
「用明天皇」の時代に「梁の帰化人・法輪独守居士」が仏像を安置したことに始まるという中舘観音寺に対して、雨引観音もまた、「用明天皇」2年に「梁の国人の法輪独守居士」によって開かれたとされています。
なんと、
・用明天皇の時代
・梁の法輪独守居士
・延命観世音菩薩
といった点で、開山のいわれが一致しているのです。
2つの寺には、もともと何らかの関わりがあったのでしょうか。「法輪独守居士」は実在し、本当にこの常陸国までやって来たのでしょうか。残念ながら余りに古い話のため、詳しいことはよくわかりません。
ちなみに梁の歴史は少々複雑で、555年には一旦滅亡するものの、その後復興。更に後梁や南梁などの系統に分かれるなどし、最終的に後梁が滅びたのが、法輪独守居士が雨引観音を開いた587年だといいます。
というわけで、中舘観音寺と雨引観音についてのお話でした。なお中舘観音寺については、まだご紹介しきれていない事があるので、またいつか、記事にさせていただきたいと思います。
■このブログで紹介したことのある観音寺とその周辺
藤原高房供養塔(筑西市指定文化財・史跡)
延命寺の枝垂桜(樹齢300年)
「法華三昧」600年以上続く伊達行朝公のための法要
伊達行朝廟(筑西市指定文化財・史跡)
中舘観音寺の桜
中舘観音寺の山門
八幡神社(伝・伊達朝宗奉斉)の桜
中舘観音寺の延命橋と掘跡
中舘観音寺の観音堂
中舘観音寺の延命水
八幡神社の檜(伊達行朝朝臣ガ遺樹)
中舘観音寺の国指定重要文化財・木造観音菩薩立像(寺伝延命観音像)とその周辺①