Hatena Blog版・筑西歳時記~ここは茨城、筑西(旧下館)市

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妙西寺・板谷波山先生の墓所

こんにちは。
5月14日、新型コロナウイルス特別措置法に基づく緊急事態宣言が39県で解除されました。とは言え油断は禁物。みんなで力をあわせて、ウイルスに打ち勝ちましょう。

さて、話は変わって・・・
わたくし臣(しん)が住む茨城県筑西市は、陶聖と呼ばれる陶芸家・板谷波山先生(文化勲章受章者)の出身地です。
その波山先生のお墓は東京田端の大龍寺にあるのですが、遺骨は分骨され、筑西市の妙西寺にも埋葬されました。
大龍寺・妙西寺ともに波山先生自身が考案したという墓石が使われ、墓所内には東京藝術大学の吉澤忠教授による墓誌が建っています。


こちらが、波山先生のお墓がある妙西寺↓

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そして、波山先生の墓所です↓

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墓は波山先生の50回忌にあたる平成24年、市民グループ「下館・時の会」(一木努会長)などの協力のもと「板谷波山ゆかりの地景観整備事業」として、現在の姿に整備されました。
整備事業では、波山先生とまる夫人の顕彰パネル、東京田端の波山邸で使われていた玄関の敷石などを設置。命日の10月10日に行われた除幕式には、孫の村田あき子さんと板谷駿一さん、須藤茂市長、井上壽博茨城工芸会会長、一木努下館・時の会会長、波山研究の第一人者である荒川正明さん、横井千春・横井高明住職など関係者およそ60人が参加しました。

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板谷波山 略歴
日本陶芸界の巨匠である板谷波山(本名、板谷嘉七)は、明治五年(一八七二)三月三日に茨城縣下館(現、筑西市)田町で、江戸時代には御用商人も務め、醤油醸造や荒物を商う旧家(屋号、板善)に生まれました。下館尋常小学校(現、下館小学校)を卒業した後、東京美術学校(現、東京藝術大学)彫刻家へ入学、校長の岡倉天心
彫刻科教授、高村光雲の薫陶を受けます。
その後、石川県金沢の石川県工業学校の教諭を経て、明治三十六年には陶芸家の道を歩ことを決意し、上京して東京・田端に自らの窯を夫人のまると一緒に築きました。以来、およそ六十年間、助手でロクロ師の現田市松との二人三脚で作陶人生を歩み続けたのです。
波山の大きな功績は、日本のやきものを近代的な芸術として確立させたことにあり、昭和九年、帝国室技芸院を拝命、さらに昭和二十八年に工芸家として初めて文化勲章を受章します。そして昭和二十九年には日本画横山大観とともに茨城県名誉県民の第一号となりました。没後平成十四年、葆光彩磁珍果文花瓶ほこうさいじちんかもんかびん(泉屋博古館分館蔵)が、近代工芸作品として初の国指定・重要文化財の栄を受けています。
波山の陶芸作品は、東洋陶磁の洗練された造形を骨格とし、十九世紀末の西欧のアール・ヌーヴォースタイル、つまり優雅で官能的な装飾性を加えた、いわば東西の工芸様式を見事に融合させたものです。


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波山と妻・まるの墓①

波山の妻・まるは福島県会津坂下町の出身。東京の共立女子職業学校に学び、一方で同郷の社会事業家・瓜生岩子の薫陶を受ける。
天真爛漫な性格で、常に波山を手助けした。苦労の末二人で田端に築いた窯は「夫婦窯」と呼ばれ、現在、板谷波山記念館に移設、公開されている。
また、まる夫人は玉蘭(ぎょくらん)の号で花鳥画などを描き、疎開中下館の乙女たちに、刺繍や料理などの指導もした。
二歳年上だったまるは、昭和三三年八月七日、八十九歳で夫に先立つ。田端の住まいの近くの大竜寺に葬られるが、後に波山の遺志で下館に夫婦で分骨された。大竜寺、妙西寺ともに、墓石は波山自身の考案である。
写真は金婚の際、波山の謡で舞うまる夫人。

 

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「板善」の墓所

波山の実家「板善」の墓で、波山の両親や祖父母、幼くして亡くなった兄弟たちが眠る。
波山は企業の際、墓参を欠かすことはなかったという。板谷家の菩提寺であるここ妙西寺本堂で、戦没者遺族への観音像贈呈式は執り行われた。

 


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板谷波山先生墓誌

昭和39年、下館の波山後援会・壽峰会によって設置された。
幼い頃、田端の波山邸の隣に住み、後に茨城県発行の「板谷波山傳」を著すことになる古澤忠の、格調多額波山を讃える文章を、帝展で活躍した金工家・北原三桂が刻んだ。

板谷波山先生墓誌
先生 姓は板谷 諱は嘉七 はじめ勤川と號したが のち波山と改めた 明治五年三月三日 考善吉 妣宇多子の三男として 茨城縣下館市田町に生れた 考は醤油醸造を業としたが 生来文墨の嗜み深くことに南宗畫をよくした
先生幼より頴悟聡明 夙に機鋒をあらわし 明治十四年下館小學校卒業 同二十三年東京美術學校彫刻科入学 校長天心岡倉覺三先生の薫陶を受け同二十七年卒業 同二十九年石川縣立工業學校木彫科教諭として赴任 暫らくにして陶磁器の魅力にひかれてその制作を試みるに至った
明治三十六年陶藝家たらんと決意して辞職 上京して東京北郊田端に窯を築き フランス陶磁を學んで獨自のマット釉葆光彩磁を創め また彫刻文様磁器に新境地を拓き さらに宋代青磁および窯變天目茶碗を研究 その制作領域きわめて廣く 華麗のうちに端然として氣品高き作品を創造した
しばしば各種展覧曾の審査員に推されたが 帝國美術院展覧曾の工藝部新設に盡力 昭和二年その設立とともに審査員に擧げられ ついで帝國美術院賞を受賞 同四年帝國美術院曾員 同九年帝室技藝員を拝命 同二十八年文化勲章を受け 日本陶藝
界 工藝界の最長老として仰がれるに至った その間後進の指導は懇切を極め 東陶曾 茨城工藝曾を主宰して多数の工藝作家の育成に當った
先生 容姿端麗 態度謙虚 よく故事を諳んじその談話はすこぶる諧謔に富んでいたが 意志鞏固 窮乏に屈せず 権貴に諂らず 終生良心的制作に徹して變ることがなかった
郷土を愛すること切なるものがあり 高齢者に自作鳩杖を贈り 戰歿勇士に自作観音像を供え また下館市のために波山先生記念曾を作って故宅および庭園を提供 育英事業の資金を寄附した 昭和二十六年下館市は名譽市民に 同二十九年茨城縣は名譽県民に推擧して業績を顕賞した
室は福島縣坂下町鈴木作平次女まる子 玉蘭と號して花鳥畫をよくした 内助の功多く 創業に當っては陶窯を築き勞苦を共にした 家に百合子 菊男 佐久良 紅葉 松樹 梅樹の一女五男がある
昭和三十八年三月發病 同年十月十日午後五時十分 九十一歳の天壽を全うして逝去した 法名惠照院清秀波山居士 従三位に叙せられ銀杯一組を下賜せられた
撰并書 吉澤 忠
刻   北原三佳
壽峰曾建之 昭和三十九年十月十日

 


田端・波山先生邸の敷石④

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田端・波山先生邸の敷石⑤

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田端・波山先生邸の敷石⑥

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田端・波山先生邸の敷石⑦

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というわけで、筑西市板谷波山記念館、しもだて美術館にお越しのみなさんは、ぜひ波山先生のお墓にもお参りください。波山先生も、きっと喜んでくれることでしょう。


■祥雲山妙西寺
茨城県筑西市新花町乙
TEL0296-22-3259

板谷波山記念館

厚生労働省