Hatena Blog版・筑西歳時記~ここは茨城、筑西(旧下館)市

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中館観音寺の延命橋と堀

こんにちは。新型コロナウイルス、感染拡大が止まりません。事態が1日も早く収束することを祈っています。

さて話は変わって・・・
先日記事を書かせていただいた中舘観音寺(施無畏山延命院観音寺)の山門の続きです。


茨城県筑西市中舘にある観音寺は、「(伝・伊達朝宗奉斉)八幡神社」の桜などでもご紹介したとおり、鎌倉御家人・伊佐氏の城である伊佐城があったとされる場所です。寺は、南北に細長い境内地で構成されています(昭和54年3月 茨城県教育委員会 『国・県指定史跡調査報告書』より)↓

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茨城県教育委員会ホームページより↓

伊佐城阯 いさじょうし
指定日 昭和10年11月26日
所在地 筑西市中館522
管理者 観音寺
制作時期 平安時代

伊佐城阯は市街地より北へ約2km、東は勤行川に接し、西は一面の水田が開ける中館の台地に伊佐城を築かれました。
現在の城跡は二の丸跡といわれ、観音寺境内になっています。
城跡のおもかげは勤行川崖に残すのみです。
伊佐城は、藤原魚名の子孫である藤原実宗が、天永2年(1111)常陸介に任命され、伊佐荘中村に居住し、この地に築いたものです。
5代目の朝宗は奥州征討に功をたて奥羽伊達郡を与えられ、次男の宗村と伊達郡に移り伊達氏を名のるようになり、仙台65万石の伊達家の祖となりました。
長男為宗と三男資綱は伊佐に残り、伊佐氏を名のって伊佐荘に拠りましたが、その後、伊達行朝は延元・興国(1340前後)のころ護良親王北畠親房を助け、大宝、関の両城と呼応して高師冬(こうのもろふゆ)の軍と戦いましたが落城し、以後廃城となりました。

 


この県教育委員会の記述には一部疑問が残りますが、長くなるので今回は止めておきます。


寺の最南端、境内への入り口付近には、「国宝中舘観世音の碑」が建っています↓

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碑には「国宝」と刻まれています。しかし現在観音寺には、国指定重要文化財の「木像観音菩薩立像(寺伝延命観音像)」はあるものの、「国宝」は存在しません。
観音寺の木像観音菩薩立像は、大正11年に当時の古社寺保存法のもと国宝に指定され、昭和25年に文化財保護法が制定されると重要文化財となっています。


このように書くと、まるで国宝から重要文化財に格下げされたかのようですが、そうではありません。
元々旧法上では、国が指定するのは国宝のみで、国宝と重要文化財の区別は存在しませんでした。後に現行法が施行された際、旧法上の国宝は全て重要文化財となり、その中から特に重要なものが新たに国宝として指定されました。つまり観音寺の観音菩薩立像は、国宝から格下げされたわけではないのです。


ただし、この碑についてはもう少し説明が必要かもしれません。
碑の裏面を見ると↓

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「昭和卅三年二月一八日時 下館市議会議長 永盛良助建立」とあります。
つまりこの碑は、現行法により観音菩薩立像が重要文化財になった後で建てられたもの。かつて国宝だった事実を、碑として残したかったのでしょうか。


なお「国宝中舘観世音の碑」の更に南には、もうひとつ、こんな碑が建っています↓

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「茨城百景 中館観音と下館近郊」


中舘観音寺(施無畏山延命院観音寺)の桜でも書いたように、ここ観音寺とその周辺は茨城百景のひとつに選ばれていて、この碑はそれを示すもの。裏面には「昭和二十五年五月選定 茨城縣」とあり、県が設置した碑のようです。


ちなみに碑の南には、かつては寺の参道だったのでしょうか、細い道が延々と続いています↓

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さて、境内の外の話はこのくらいにしておいて、お寺へと歩を進めましょう。
境内に入るには、橋を渡ります↓

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いつ頃から呼ばれているかは定かでありませんが、橋の名前は「延命橋」↓

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橋の下には、勤行川に架かる高島橋へと続く道が通っています↓

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ここは、伊佐城の堀(城などに築かれた敵の侵入を防ぐための溝)だったといわれていて、実際かなりの深さがあり、いかにも堀跡のようです。

深さがあり、いかにも堀(城などに築かれた敵の侵入を防ぐための溝)跡のようです。

 

橋を渡るといよいよ境内。
石畳を進んだ先は、観音堂です↓

 

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というわけで、境内に入る前の説明だけで、かなりの字数を費やしてしまいました。
続きはまた次回、中舘観音寺(施無畏山延命院観音寺)の観音堂に続きます。

 


■このブログで紹介したことのある観音寺とその周辺
「法華三昧」600年以上続く伊達行朝公のための法要
伊達行朝廟(筑西市指定文化財・史跡)
中舘観音寺の桜
中舘観音寺の山門
八幡神社(伝・伊達朝宗奉斉)の桜

 

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