Hatena Blog版・筑西歳時記~ここは茨城、筑西(旧下館)市

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結城市西の宮・住吉神社(結城七社)

こんにちは。
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さて先日のこと、結城市役所の庁舎を記事にしましたが、その時に市役所隣ある住吉神社の写真を(スマホで)撮ったので、ご紹介しておきます↓

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住吉神社由来記
西の宮鎮守住吉神社の創建は建武(十四世紀)の頃とされるが、詳らかではない。
大阪市住吉区にある住吉大社を全国の総本社とする。
御祭神
 底筒男命(そこつつのおのみこと) 中筒男命(なかつつのおのみこと) 表筒男命(うわつつのおのみこと)
配祀
 髙椅神社
この三神は記紀神代巻によると伊弉諾命(いざなぎのみこと)が筑紫の日向の橘の小戸の檍原(あわぎはら)で祓除けをされたときに生まれた神とされ、神功皇后三韓平定の際に神威を輝かし、凱旋の後今の地(大坂市住吉区)に創建された。此の縁起により当神社も創建されたものと思われる。
中世武士団は武運長久、一門繁栄、城下万民豊楽を祈願するために氏神を祭祀し手厚く守護した。結城家においても結城領内の既存の神社、もしくは新たに神社を建立し特に遇した。
十四世紀半ば南北朝時代、東国武士においても両統に分かれ激しく対立、北朝方結城家七代直朝の代、南朝方関城々主を討つため北斗七星に必勝を祈願、其の甲斐あって関城を攻略し、康永二年(一三四三)五月十日に結城七社を定めた。当住吉神社も七社の内に数えられた。これは七社(北斗七星)の中に破軍星を求め、祈願すれば、必勝を得るという秘法である。後に士庶ともに崇敬され、結城家からも崇敬篤く十八代秀康より祀田九石を賜ったといわれ、福井移封の後も名代を立て結城七社を巡拝された。また、神仏習合著しく別当神宮寺を置いた。(現大神宮)
文政五年(一八二二)三月社殿火災により焼失し、結城藩命を以って天保元年(一八三〇)に再建竣工した。江戸時代後期の神社建築の様式を伝えるのが現在の拝殿である。髙椅神社の配祀の年代、事由については解っていない。
爾来幾星霜、広大な御神徳、夢寐(むび)にも忘れることなく、西の宮町内の守り神として、町内氏子一丸となり境内神池の整備、社殿御屋根の修復、玉垣修復等を行い今日に至り、また御神徳を後世に伝えるものである。
例祭日
 春季例祭
 四月二十九日(昭和の日)太々御神楽奉奏
 秋季例祭
 十一月二十三日(勤労感謝の日
結城七社
 ①牛頭天王(健田須賀神社)②住吉大明神(西の宮)③大桑大明神(小森)
 ④髙椅大明神(髙椅)⑤八幡宮(上簗)⑥大神宮(中河原)⑦鷲宮大明神(萱橋)
 以上七社を巡拝すると霊験があると昔より言われている。
平成十九年一月吉日 撰文 宮司 小貫隆嗣
結城ロータリークラブ


神社に隣接して池がありました↓

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きっとこの池が、前述の住吉神社由来記にある境内神池でしょう。
猫が池の中の魚を、じっと覗いていました↓

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そして、こちらも由来記に登場する大神宮(神仏分離以前の別当神宮寺)↓

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南北朝時代茨城県筑西市にある関城の城主であった関宗祐・宗政父子は、南朝の重鎮・北畠親房を城に迎え入れました。城は北朝方の攻撃に耐え続けましたが、興国4年(1343)11月に遂に落城。関宗祐・宗政父子は城と運命をともにし、戦いで重傷を負った北朝方の結城直朝もまもなく死去(享年19歳)しました。国指定史跡の関城跡には、関宗祐の墓の隣に結城直朝の墓が残され、地元関舘地区の人々の手で今も大切に守り続けられています。

なお、室町時代に結城氏の居城となった結城城跡の南東の一角に、結城氏初代朝光から16代政勝までを祀った廟所があり、7代結城直朝もここに祀られています。


というわけで、結城市西の宮の住吉神社でした。


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厚生労働省